中国医学の誕生と発展
中国で最も古い医学書『黄帝内経』の中に、中医学の成り立ちが次のように記載されています。
東方の地は海に近く、魚と塩を多く摂るため、でき物や腫れ物で病むことが多い。それで、鋭い石器で切開し、除去する外科療法が発達した。
西方の地は山岳で、気候が激変しやすく、人々は衣服を着ずに毛布をまとって生活をしていた。脂肪太りとなり、邪気が内にこもるために内臓の病気が多く、煎じ薬を用いる治療法が発達した。
北方の地は高原で、寒さが厳しく、人々は遊牧民で乳を主食としていた。そのために腹の張る病気が多く、灸療法が発達した。
南方の地は高温多湿の平野で、人々は酸をたしなみ、腑(はらわた)を食していた。そのために体表面に血行障害が起こり、手足が引きつれたり、しびれたりするので、体の表面に鍼治療を行う療法が発達した。
中央部は湿気の多い平原で、いろいろな物を食べ、運動不足となって手足の力がなくなり、冷えやのぼせを生ずることが多かった。そのために、運動療法やマッサージが盛んになった。
とされています。
その土地、その環境で生活をすることで得た経験的な医学といえます。
それが統一され、中国医学として現在に至ります。
中国医学では、人の健康と病気を、宇宙の万物、四季にともなう自然の変化と深い関係があると考えます。
そのため治療は、植物や鉱物などの生薬、灸や鍼などを用い、身体にやさしく自然との調和を図るよう促します。
現代の文化史は、中国大陸を黄河と揚子江(長江)によって三分し、それぞれの地域を、黄河文化圏、江淮文化圏、江南文化圏と名付けられたのです。
黄河文化圏:この文化圏を作った祖先は、遊牧の民であったといわれています。
激変する気候の中で、裸になっての医療体系は発達せず、頭部や四肢の露出部分に、石器や骨器等で刺激を与えたり、皮膚に火熱を加えたりする針灸治療が発達したと想像されています。
そうした経験の中から、「経穴=ツボ」が発見されたと言われています。
そしてツボの系統がわかり、「経絡」が発見されたと伝えられています。
江南文化圏:この文化圏を作った祖先は、高温多湿の気候と、平原に恵まれて生活し、豊かに生い繁っている草や木の根や皮を用いて病気を治療する薬物療法が発達してきたと言われています。
この文化圏は、気候風土からして流行病の発生する地域で、そうした経験の中から湯液「漢方」医学が発達したのです。
そして処方と結びついた「証」という概念を体系化するに至ったのです。
江淮文化圏:中国医学の第三の古典「神農本草経」といわれるものが、この文化圏を作った祖先であると伝えられています。
西方の山地に産した多彩な植物を中心に、一つ一つの薬効について述べられています。
中国大陸の各地で発達してきた伝統的な地域医学が集大成されたのが紀元前後です。
紀元1~2世紀頃の漢王朝の時代に、『黄帝内経』や『傷寒論』など中医学理論の基礎となっている医学書が完成したのです。
その中医学の考え方の基礎となっているのが、中国の古典哲学に基づく『陰陽五行論』というものです。
陰陽と五行のバランスがとれていると健康で、この陰陽と五行のバランスが崩れると、病気や不調が起こるというのが中医学の考え方です。
人間の身体を自然と一体の法則を持つものとして丸ごととらえ、その全体のバランスを考えたのが中医学理論なのです。
また中医学で大切なものに、「気」「血」「津液」という身体を構成する成分があるという考え方です。
気とは生命エネルギーで、宇宙に満ちている気が食べ物や呼吸によって人体に取り入れられてエネルギー源となり、その気が変化してできたのが血と津液で、新陳代謝を司ると言われています。
この気は、「経絡」という全身に張り巡らされた目に見えないルートを伝わって流れ、この気や血や津液の流れがスムーズであれば健康で、滞ると病気になるという考え方があります。
中医学は、悪いものを除き、症状を抑えるのではなく、身体バランスを整えるというのが基本的な考え方です。
身体の中の不足したものを補い、過剰なものを取り除き、身体の陰陽五行のバランスを整え、気・血・津液の流れをスムーズにして、正気を補って抵抗力を強めることを第一に考えた医学なのです。
どんなに科学が発達しても私たちは地球という大きな自然に逆らって生きていくことはできません。
地球だけでなく、人体の中にある自然にも逆らって生きていくことはできません。
そのことを昔の人は何となく知っていたのかもしれません。
中国医学の基本である黄帝内経、神農本草経、金匱要略、傷寒論の解釈の仕方でいろいろな考え方が生まれていると言っても過言ではないと思います。
それだけ偉大な書籍だということですね。